インタビュー

2026.03.19

羽生結弦さんが東日本大震災15年に寄せた思い 「5年先、10年先も伝え続ける」

 インタビューに応じる羽生結弦さん

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 東日本大震災の発生から15年。フィギュアスケート男子で冬季五輪2連覇の羽生結弦さん(31)が3月10日、出身地の仙台市で共同通信のインタビューに応じ「またいつ起こるかもしれない災害に対して、備え続けていくことが必要。減災につなげられるように『3・11』を経験した身として、5年先も10年先も発信し続けたい」と決意を語った。

 インタビュー全文は次の通り。

悲しむだけの時間は少なくなった

羽生結弦さん

  ―東日本大震災から15年の月日がたちました。

 「本当にいろんなことがあったなって思います。僕にとってのこの15年は、3回のオリンピックがあって、その3回のオリンピックの中でも、それぞれの4年間があって、その4年の中にやっぱり日ごとに本当にいろんな思い出がある。もちろん復興であったり、痛みとの寄り添い方みたいなことを考えた時に、15年間の一日一日が尊いものではあるなとは思うけれど、改めて感じると、15年たってしまったんだなっていう気持ちもありますし、本当にいろいろです」

 ―人生の半分を震災と向き合い続けてきた。気持ちの変化は。

 「ただ悲しむだけの時間みたいなことが少なくはなったなとは感じますね。もちろん悲しいねってなることはもちろんあるし、向き合うと、いろいろと思い出しますけど、でも進んでいることには間違いないし、時間は誰しも平等に進んでいくので、その時の流れに身を任せつつ、でも一つずつ進んでいる街であったり、僕たちの心であったりとか、そういったことにもしっかり目を向けて、生きていきたいなって思いますね」

全てに寄り添うことができなくても

インタビューに応じる羽生結弦さん

 ―改めて東日本大震災は、羽生さんにとってどんなものか。

 「なけりゃよかったなって思っています。それ以上にはならない。もちろんあれがあったから、きっとあのことがきっかけでいろんなことを学んで、いろんなことを感じながら生きてきたのは間違いないんですけど、あくまでも僕にとってはそれは後付け。あれがなければよかったなっていうのは、いまだずっと思っていますね」

 ―言葉や演技を通して語り部として、活動を伝え続けている。

 「僕はフィギュアスケーターなので。身体表現はやっぱり国境を越えてくれると思うし、言葉じゃない表現だからこそ伝わる何かしらの感情みたいなことが、それぞれの文化によって、また受け手によっても全然違うものになってくれるからこそ、やりがいがあって、このフィギュアスケートというものに携わっていて良かったなというふうには思ってはいます」

 「ただ、言葉であっても、身体表現というスケートであったとしても、やっぱりこの15年間が、それぞれみんなが生きてたきた、その日々が違うように、その震災に対しての思いなんかも皆さんそれぞれ全然違うので、全て寄り添うことができないなっていうことを悟りつつも、でもそれぞれに対しての気持ちに柔らかく、優しく、優しくいたいなっていうことは常に思っています」

 ―これまでも全ての方に寄り添うことの難しさについて葛藤してきた。

 「これには答えがない。きっとまたこれから先、時間がたつ中で、また自分自身もいろんな経験をしていく中で変わっていくとは思うんですけど、今の自分としては、とにかくやっと、自分自身を取り残さないことができるようになってきたかなっていうのは思えるようになりました。確かに津波のつらさとか、何かを失うつらさとか、生活の基盤、お仕事の基盤が壊れるつらさとか、正直、そこは僕自身が体感していないので、完全に分かりますとは言えない。分からないからこそ、寄り添えないなという気持ちもなくはないんですけど、でも、今までは、ごめんなさい、私分からないんですけれども、寄り添うように努力していますっていうフェーズから、ちょっとずつ、僕自身もつらくてよかったんだなって、私自身も震災に遭った身として、こういうつらさはあったよなっていうことを認めつつ、寄り添おうとする気持ちを大切に、両方とも大切にっていうことが、ちょっとずつできるようになってきたのかなっていう、本当にちょっとですけど、できるようになってきたような気がします」

自分自身の見たくない感情を見つめ直すようになった

羽生結弦さん

 ―羽生さん自身、心の傷やトラウマを抱えて生きてきていると語っていた。どんな時に思い起こすのでしょうか。

 「本当にふとした瞬間ですね。あとは、地震がやっぱり東北はすごく多いので、たとえちっちゃい、震度1とか2の揺れだったとしても、ここから大きくなってしまうんじゃないかという恐怖であったり、たとえ震度2だったとしても、初期の振動が縦揺れとかなってたりとかすると、やっぱり怖さを感じる。条件反射のように体が動いてしまう、硬直してしまうみたいなことはやっぱりありますね」

 ―7~9日に宮城県利府町で開催されたアイスショー「notte stellata」では心に傷を抱えながらも、前に進む姿を描いた新演目「Happy End」披露した。震災当時の思いと向き合ながら演目を作り上げていく難しさやご自身への負担はないですか。

 「気持ちの外側を表現することって、今までずっとしてきたんですけど、あんまり自分の内側に対してフォーカスを当てて、物語を書くことはもちろんあるんですけど、直接的に表現につなげようみたいなことを、自分が振り付けをするということになった時に、あんまりそういう作業をしてこなくて。震災だけじゃなくて、もちろん僕自身が傷ついてきたことであったりとか。まあ、僕は震災だけで生きているわけではないので。やっぱり僕自身の人生があって、その人生の中でのつらさみたいな、傷とかいろいろあると思うんですけど、やっぱり、そこをえぐっていく作業は、つらさもあるけれども、ある意味、荒療治というか、ちょっとしたカウンセリングになるというか、こういう感情もあったよなとか、これを見ないようにしてきたけど、ここからこんな感情に変わってったんだなみたいな、そういう自分なりの心の奥底にあるストーリーみたいなものを見つめ直すきっかけにはなったかなと思います」

言葉がない表現だからこそできること

羽生結弦さん

 ―東日本大震災以降、被災地を今まで回ってきて、いろんな方が経験を伝え続けることで、減災につながったという実感もされた。どういったところで特に考えられましたか。

 「本当、全地域ですね。もう3・11以降、本当、全地域で全然違ったと思います。正直僕が生まれたのが1994年12月で、(阪神大震災が発生した)翌年の95年1月17日っていうものを、僕は東北にいるので、その揺れ自体を経験したわけでもないですし、テレビでやっていたとしても、正直ニュースなんかよく分かってないし、記憶にも残ってないんですけど、でもそれ以降にできた建物であったり、そこから建築基準が変わって、耐震基準とかも変わって、今の僕らの街は出来上がっていると思うんですよね。そういった意味で、まず僕ら自身もその恩恵を受けているというか、1・17から学んできたことが、僕らの命をずっと守ってきてくれているんだろうなということを、改めて僕がその3・11以降起きた災害の地域を回った中で、気づかされたことでもありますね。だからこそ、ある意味では、僕は3・11を経験した身としては、(経験を伝えることを)やっぱりずっとずっと続けていきたいし、その1・17という、もう二度と起きてほしくないような災害があって、僕らがこうやって、もしかしたら生かされているのかもしれないということを考えると、やっぱり伝えてきてくださってありがとうという気持ちにもなるし、だからこそ僕も伝えていかなきゃいけないしっていうようなサイクルができているなっていう感じはしています」

 ―風化させてしまう怖さっていうのを抱えながら。

 「風化させる怖さというよりは、正直僕は、災害があったこと自体は、詳しくは分からなくてもいい子供たちだっていると思うんですよ。そのつらさを体験しなくてもいい。ただ、僕らが、その原発の問題だったりとか、津波の問題であったりとか、そういったものに直面して、いろんなことを考えて、いろんな結論を出してきたことはやっぱり知ってほしい。それはずっとずっと伝え続けつつ、またいつ起こるかもしれないその災害に対して備え続けていって、守られるべき命や守られるべき街たちがちゃんと守られるように伝えていく必要があるっていうことを感じています」

 ―震災について考え、寄り添うきっかけであり続けていたいと語ってきた。15年という節目に、次の5年、10年っていう風に考えた上での羽生さんの役割というのはありますか。

 「僕らは、教科書になってはいけないなっていうことを最近ちょっと思っていて。学校の教科書とか率先して読むものではないじゃないですか。そういう授業があって、先生たちに何ページを見てって言われて、先生に教えてもらってやっと見るものであって。だから僕らはただの教科書とか、歴史とかになってはいけないなって強く思うんですよね。学ぶきっかけであり続けなきゃいけないなって思う。与えられるだけだと、正直人間ってあんまり覚えないので、とにかくその一つ一つの出来事であったりとか、いろんな感情とか、大切にしてほしい人たちを、自分にとっても大切かもしれないとか、自分に必要なのかもしれないとか、こんなことがあったんだっていう、まず興味を持ったり、考えるきっかけになることが一番、僕は大事だなと思っている。ある意味ではその身体表現っていう、さっきも言いましたけど、言葉がない表現だからこそできることであって、使命なのかなっていうことを思っています」

「節目」という言葉は使いたくないけれど...

直筆の色紙を手にする羽生結弦さん

 ―ここまで走り続けてきたスケート人生で、昨年8月に充電期間を設けることを発表。「notte stellata」を復帰の場にした思いは。

 「何とかここまでには間に合わせたいみたいな気持ちはありましたね。僕はあまり節目という言葉を正直使いたくはないんですけど、一般的にはやっぱり5の倍数に何かしらの特別な気持ちを持ってしまう。この15年っていう時だからこそ絶対に、より一層強くメッセージを伝えられる場所でもあると思ったので、ここの場所には(状態を)戻したいっていうのは思っていました」

 ―言葉では、「希望」や「絆」という言葉をすごく大事に発信されている。いつもどんなことを考えながら言葉を発信しているのか。

 「根本は変わんないんですよね。僕は、震災に遭ってすぐにいろんなスポーツから勇気をもらいましたし、希望ももらいました。いいもの見た、頑張ろうみたいな気持ちになることはもちろんたくさんあった。実際、ベガルタ仙台や東北楽天イーグルスの頑張りとか、ものすごく力になった人間の1人なんですね。だけど、僕自身は勇気を与えるという立場にいてはいけないなと思っていて、何か与えるんじゃなくて感じてもらえるだけなんだよなって。そこに興味、関心を持ってもらえるからそれを感じてもらえるだけであって。だから、僕は、その興味、関心を持ってくださっている方々に対して、やっぱり真摯(しんし)に向き合いながら、その力を受け取りたいと思った方に対して、力になれるようなものをどんどん出していきたいし、それがたとえこの先、5年であっても10年であっても、形を変えているかもしれないけれども、できるのであればずっと続けていきたいなという気持ちであります」


 ※インタビューの最後に手渡した色紙に「変わらない想いと共に、前へ」と記した。

 ―この言葉を選んだ思いは。

 「15年たっても変わってないよなということも大切にしながら、でも共に、前へっていう、ずっとスローガンとしてきたことがあったので、それも変わらずにずっと続けていきたいなという気持ちです」

藤原 慎也

この記事を書いた人

藤原 慎也 (ふじわら・しんや)

全国紙で5年間の勤務を経て、2014年に入社。名古屋でプロ野球中日を取材。2016年末に東京運動部へ異動し、フィギュアスケート、体操、パラスポーツを担当。だんじり祭りで有名な岸和田市育ち。

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